福島県南相馬市、宮城県石巻市

察報告書

議員名 浜崎太郎

視察日時

平成25年4月13日(土)~15日(月)

視察先

1.NPO法人あさがお & 社会福祉法人 石巻祥心会「ひたかみ園」
2.一般社団法人 南相馬除染研究所
3.追波川仮設住宅 遠藤さんほか住民の方々、 開成仮設住宅 地域交流拠点あがらいん

相手先情報

1.NPOあさがお 理事長 西みよ子氏、ひたかみ園 理事長 宍戸義光氏ほか
2.南相馬除染研究所 事務局理事 箱崎亮三氏ほか
3.追波川仮設 遠藤さんほか、 あがらいん 管理者 橋本泰典氏

視察を行う
目的やねらい

1.福島原発の爆発で避難を強いられた障がい者施設での対応と避難方法、また避難先での障がい者へのサポート体制について。また、2年経った現在の状況について、利用者の心理状態など、日々の活動が依然とどう変わったか。また、石巻市での障がい者施設での当時の状況と当時の対応について。
2.福島原発で起こった爆発で汚染された地域の除染作業の進捗状況について。
3.震災から2年経った現在でも多くの方々仮設住宅での生活を強いられている。直接仮設住宅に伺い、実生活での問題点などを視察、検証する。

 

NPOあさがお 理事長 西みよ子様からの震災直後の避難について伺う。

下記の4施設を運営を行っている。

・活動支援センター:いっぽいっぽあさがお
・就労継続支援B型:きぼうのあさがお
・共同生活介護・援助事業所:いやしの家1いやしの家2いやしの家3
・あさがお居宅介護支援事業所 安心・あさがお指定居宅介護事業所

初日、仙台空港に着いてから直ぐに南相馬のNPO法人あさがおへ。ここで福島原発が爆発したところからの体験談を聞きました。 まず、原発爆発で30キロ圏内の住民は行政が用意したバスに乗り避難して行ったのですが、このNPOあさがおは30キロを少し超える位置であった為に、そのバスに乗車することができず、理事長と職員はすべての障がい者を施設車や職員個人の車に乗せ、山形県まで避難をしたそうです。ここで、障害があろうともすべて30キロ圏内という括りだけで決定され、施設など社会的弱者と共に行動しなければならない立場では、この避難は非常に困難な状況であったはずだ。想定外だった状況ではあるが、要援護者への対応が行われなかったのは事実だ。

山形の避難所での生活も緊急事態であったため、要援護者を優先するような状況にもなかったと説明を受けた。避難所では、当然のように慣れない環境でなかなか利用者たちは落ち着くことができない。彼らは慣れない環境に不安がり、また、集団生活の避難所ではインフルエンザなど環境悪化要素が広まり、利用者への対応と職員自身の状況から、山形で長居することができなくなり、結局南相馬に帰ることになったそうです。

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結果的に自分たちの施設での生活を望んだ皆さんであったが、放射能汚染がどの程度まで人体に影響があるのか誰もわからない中、苦渋の決断であったと感じられる。何を優先するのかを決める時点の判断の決め方は、健常者のみの場合と障がい者と共に行動する場合では違うことになる。放射能汚染というリスクがあるにもかかわらず、障がいを持つ利用者の「落ち着き」を選択したことは利用者本位という姿勢が感じられた。

一般社団法人 南相馬除染研究所

NPOあさがおと同じ南相馬にある一般社団法人南相馬除染研究所を訪ねました。ここは、除染について東京電力や政府の情報だけでは、真意がわからない、もっと情報を正確に出さなくてはならないという思いから、自分たちで除染のことを調べて行く研究所です。そこの箱崎事務局理事にご説明をいただいた。

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ここは、元産婦人科の跡地なのだが、じつはここはよくテレビにご出演されていた南相馬で最後まで産婦人科を開き続けた、高橋亨平さんの病院である。この場所を借り、過去にこのような事故は起こったことがないので、何もかもが初めてで、また見えない放射能という相手であり、除染の安全性も分からない中、専門家が集まっている研究所です。

その後、 昼間しか入ることが出来ない20キロ圏内に現在この研究所に所属する、元南相馬市議会議員の太田さんにガイドいただき入りました。

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この区域に入るには厳重にチェックされます。人が住んでいないので犯罪が起こることもあり得るのでこういう措置となります。
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車が数台いるくらいで二年前の震災直後と同じ状況です。
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人一人歩いていません。
壊れたままの状態です。 30万円以上する高性能の線量計で、放射能線量を測定。

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線量計が1.96位をさしていましたが、山側に向かうと2.7くらいをさしていました。これ以上は行けないとこまで行き、引き返しました。放射能は山に向かって、木の葉などにたまるそうです。

その後、福島原発が見える場所へ向かいました。
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漁船がありますがその船先の向こうの森の中にクレーンなどが見えるのが福島原発です。途中警察官が来て、マスクをはめないと危険ですと言われました。 その後、20キロ圏内をでて、南相馬の施設関係者と意見交換会と食事会を行いました。ここでは、福岡市東区からボランティアに来ている松田さんという若者も来てくれていろいろ情報交換しました。

東北での二日目は仙台のホテルから石巻へ向かいます。石巻は宮城県で2番目に人口が多い街です。今回はこの街で平成3年から障害福祉事業を営む社会福祉法人石巻祥心会のひたかみ園を訪問。ここも、海岸から近く、被害をうけたが、たまたま水の侵入がなく、緊急避難所として多くの被災者を受け入れたそうです。グランドもあったので、ヘリコプターの離着陸場となり、運ばれた人たちへの介助など障害福祉の枠を超え携わったそうです。震災が起こったその日から、法人事業所6か所を避難所として解放。地域住民150人、利用者とその家族180人、のちに、別の入所施設を開放し、40家族80人を受け入れる。また、別の避難所で過ごすことが難しい障がいを持つ方々を日赤を通して受け入れる。その後、各避難所を訪ね、障がい者のケアや、食料の提供を行ったそうです。実は、震災で、この法人自体も理事者2名、職員1名、利用者1名の命を失っています。また、その家族などは多数。グループホームも3棟が壊滅状態。乗用車は多数廃車となっています。そういった中、「地域に支えられ20年、今こそ恩返しをするとき」という思いから活動を続けたそうです。かなりの財産を注ぎ込んだようですが、理事長さんは、「新しいものをつかむ為には今持っている物を壊さないと掴めないんだ!囲うな!必要なところへ必要なものを渡せ!」との気持ちから多くの方々を救うきっかけになったそうです。その後、日本財団から緊急に1億6千万円補助を受け、福祉避難所を開設。建てる時も資材やプレハブが入手できず、中国から直接買い付け40戸を開設。毎日毎日、支援を休むことなく続けていったそうです。 ここで、2年経った今、ひたがみ園職員が思うこと。 ・自分の家族の安否が分からないので仕事が手に付かなかった。 ・利用者だけでなく職員も精神状態が良くなく適切な接し方ができなくなった。 ・一瞬の判断で命が助かるかどうか強く実感した。 ・被災した自分の家を見に行ったのは1ヶ月後だった。 ・母親が停電のため、痰吸引ができず、誤嚥性肺炎で危篤となった。 ・災害に対応できる立派なマニュアルがあっても、起きた時に最良の判断ができる決断力が必要であると感じた。 ・利用者の状況にかかわらず、個別対応は厳禁。一番安全な選択とグループで決めた行動をとるべき。 などなど。 もし福岡で起こったら同じようなことが必ず起こるでしょう。話をじかにお聞きすることでき、災害の大変さを実感した。 その後、追波川仮設住宅を訪問。ここでは昼食をいただきながら仮設入居者の実際のお話をおききしました。

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やはり高齢の方が多いです。向こうから3番目の方(遠藤さん)がよく説明くださったのですが、今まで仮設を転々とさせられ、ここが6か所目だそうです。とりあえず、仮設で生活していくしかなく、その生活の質について苦労が多いというような意見が出ていました。仕事するわけでもなく、

毎日、何をするのかなどが決まってなく、生活の張りのようなものがないように感じました。そのような中、女性陣で「おがつ華の会」を結成して、昼間、集会場でパッチワークなどして作品を作り、販売をしているそうです。もともと仮設は2年間で出ることになっており、復興住宅などに移り住めるはずであったそうですが、石巻には十分な土地がなく、仮設住まいが長引いているそうです。土地を売ってくれる地主もいるのはいるが、それでも十分ではなく、土地が無いので仮設からみんな出られないそうです。その後、仮設の中を無理言って見せて頂きました。

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玄関は2重ドアになっています。以前は1枚だけだったそうですが東北の厳しい寒さで後付けされたそうです。夫婦お二人で2Kの間取りです。一番の問題はとなりの声などがよく聞こえることだそうです。最近、皆さんは我慢して何も言わなくなったそうですが、以前はトラブルの一番の原因だったそうです。

 その後、門脇(かどのわき)小学校、女川、雄勝(おがつ)を訪問。雄勝では何も無くなってしまった街に命を吹き込む為の復興イベントが行われていました。仮設の商店街が開設されて、多くの人で賑わっていましたが、周りには家も建物何もなく、イベント時は良いでしょうが、日々の売り上げはなかなか上がらないようです。元役所の方に聞くと平日はあまり人が来てくれないとのこと。しかし、何もしなければ何も始まらないという使命を感じました。

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移動中だったので買えなかったですが、御食事処 洸洋さんが売っていた大きなホタテ貝がとても美味しそうでした。

そして、大川小学校に向かいました。    多くの子供たちが犠牲になった小学校です。堤防が決壊するという、想定外の状況になってしまったようです。

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裏山です。慰霊碑が建っています。小学校の建物前に献花台がありました。被災地では写真を撮る行為について、その場所の状況を考えなければなりません。観光地ではありません。

 

3日目、最初に道の駅「上品(じょうぼん)の郷」に向かいました。ここは大きな道の駅で、1か月1億円の売り上げがあるとても賑やかな場所です。

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バイキングレストランや産直品販売、温泉保養施設などがあります。石巻から山側に車で30分ほどの場所にあります。ここで駅長の太田実さんにお話しをお聞きしました。太田駅長は元町長さんです。

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震災後、石巻から津波被害を受けた多くの人々がここに集まってきたそうです。次から次に人が来るので対応しきれない為、店を閉めたりして、店を守ったりすることもありえるでしょうが、太田駅長は被害を受けた方々をみて、お風呂にも入っていない、食事もとっていない、トイレもできていない、などの状況を考え受け入れたそうです。 しかし、当時ここも電機、水、ガスが止まっていましたが、まず持っている食糧を皆さんに提供。避難者の方々にはお金を持って避難してきた人と身体一つで逃げてきた人と状況はいろいろ。しかし皆さんが食事できるよう、取り組んだそうです。皆さんをみると真っ黒な海水に全身つかったままの方も多く、3日後にやっとライフラインが復旧してお風呂を提供できるようになり、それから8ヶ月間、無料でお風呂を提供したそうです。その間、ボイラーが2度壊れて、復旧に5000万円かかったそうですが誰にも請求できる状況でもなく施設で支払ったそうです。また、トイレも大きな問題だったそうです。電気水道が止まり、流れない状況でも人はどんどん使用して、便があふれ出す状況だったそうです。それを職員さんたちが手袋をはめ、手作業で除去していく毎日だったそうです。 被災した町だけが大変と思いがちですが、その被災した方々の受け入れをした周りの方々も大変な思いで過ごしていたということを忘れてはならないと感じました。

それから、大型の仮設住宅地、石巻開成にある「あがらいん」を訪問。この開成地域は1000世帯を超え、市の総合運動公園横にあった、企業誘致用地に建てられています。これだけの世帯が住んでいるものの、生活インフラは脆弱で仮設の飲食店は1店、食料品店も1店、コンビニ2店、診療所薬局各1店。この状況で、2年になる仮設に住む方、特に高齢者や障がい者の方のケアをするために全国コミュニティライフサポートセンターというNPOが行っている活動を視察しました。管理者の橋本さんです。

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自宅ではない家でずっと過ごし、初めてのご近所さん、財産を無くし、家族を無くし、そんな状況の方がたくさんいて、介護保険法や障害者自立支援法以外にも、現行の法律では対応ができない皆さんへもサービス提供をしていく団体です。あがらいんは現行法の活用で個人の暮らしを支える事業を行うことのほかに、地域住民の暮らしに関わる事業、例えばキッチンカーで各仮設へイベント風に食事提供したり、朝のラジオ体操、畑で野菜作り、月例映画会、こども学習塾などを行っています。キッチンカーです。

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国、行政は、仮設住宅をとりあえず用意した。しかし、そこに住む人々の環境や人間関係などは立ち入らない。でも先が見えず、現状ではずっと住んで行く状況でこの辺が確立されないと安心して過ごせない。2年経つが、抱える課題は本当に多いことを実感する視察でした。福岡市も津波は来ないと言うけれども、では南海トラフ地震がきて、大分、宮崎が被災したとき、かならず、被災者を受け入れなければならない。その取り組みに終わりはない。

視察の感想・所見

お話を伺った、武田理事長と小石澤所長からの「高い工賃を払う」という意気込みを感じた。それは障害を持つ人も社会の一員であり、分け隔てなく社会参加するべきであるというお二人の強い思いからである。また、売り上げや工賃も常に高い目標を設定し、それに向って努力を積み重ねる姿勢に学ぶべきことが多い。

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